第8章 他の人を見下す

「誰? 誰から電話?」

背後から、澄んだ女の声が飛んできた。

佑奈が我に返って振り向くと、親友が手すりにもたれ、面白そうにこちらを見て笑っている。

白石羽奈。白石家の令嬢で、帝京の令嬢たちの間では名の知れた小悪魔だ。

気が強い。でも、言いたいことを言わずに飲み込むなんて性格じゃない。

この界隈で、佑奈が唯一腹を割って話せる相手でもある。

ここ数年、佑奈が家にこもって働きもせずにいることを、羽奈は誰よりも「もったいない」と怒っていた。

専業主婦なんかになったら、誰も価値を見てくれない。そう何度も言われた。

身を削って有川紘樹に尽くしたところで、周りからは「よくできた使用人」にしか見られない、と。

佑奈は違うと思っていた。

自分なら、いつか有川紘樹の心を温められる、と。

けれど今、現実が突きつけたのは――友の忠告を聞かなかった代償だった。

賭けたのは人の心。

この世でいちばん不確かなもの。

「……なんでもない」

佑奈は深く息を吸い、スマホの画面を落とした。

羽奈は眉をつり上げたが、佑奈が語りたくないと察すると、それ以上は踏み込まない。

代わりに立ち上がって距離を詰め、肩をすくめた。

「はいはい。無理に聞かない。じゃあ別の話」

「離婚協議書。紘樹、サインした?」

佑奈は目を伏せる。

「机の上に置いてきた。……今ごろ、サインしてるはず」

「はず?」

羽奈が盛大に白目をむく。

「本当にサインしたなら、とっくに連絡が来てるでしょ。何をグズグズしてるんだか」

「子どもが小さいから離れられないって思ってる? 利用できるうちは利用して、あんたを婚姻に縛りつけておきたいとか」

言葉がどんどん刺々しくなる。

「結婚するときは乗り気じゃなかったくせに、離婚ってなったらサインしない。つまり何?」

「世話されるのが快適すぎて、手放したくないだけでしょ。『こんな便利な使用人、もう見つからない』って」

佑奈の顔色がすっと白くなる。

羽奈は言い過ぎたと気づき、口調を落とした。

「……ごめん。焦ってるだけ。あんたのことだから」

この数年、有川紘樹が佑奈をまともに見たことなど一度もない。

人生を共に歩む相手として扱ったこともない。

「ほんっと、頭おかしい」

羽奈は吐き捨てる。

「ちゃんとした奥さんを大事にしないで、盗作中毒の偽物を、本物の恩人みたいに持ち上げてさ。吐き気する」

羽奈は苛立ちを飲み込めず、いくつか罵った。

親友だからこそ、当時の出来事も知っている。

佑奈が何度『助けたのは自分だ』と言っても、あの目の節穴は信じなかった。

挙げ句に、功績を横取りした女だと決めつけた。

――ふざけるな。

命がけで助けるなんて、惚れてもいない相手にできるわけがない。

羽奈の言葉を聞きながら、佑奈の胸のつかえも少しだけ晴れた。

小さく笑い、そして表情を引き締める。

「どのみち離婚はする」

「無理なら、訴訟にするだけ。あの人に世間体があるなら、どこまで恥を晒せるか見ものよ」

羽奈がパン、と手を叩いた。

「それでいい!」

「どう転んでも、絶対に離れな。あいつに思い知らせてやって。『お前がいないと生きられない』なんて幻想、粉々にしてやれ」

佑奈は口元をわずかに上げ、それでもやっぱり気になって、幼稚園の先生へメッセージを送った。

『子ども、今幼稚園にいますか? 何かありました? 父親が送り届けたと聞いて』

すぐ返信が来る。

『安全です。先ほどは情緒が不安定で泣いていましたが、落ち着かせました。今は寝ています』

佑奈は胸の力を抜き、スマホをしまった。

「よしよし。くだらないこと考えるのは終了」

羽奈は座席の背から佑奈のコートを引っぺがすように取って、そのまま押しつけた。

「行くよ。今日はお祝い」

「……何の?」

「現実が見えて、やっと目が覚めたお祝い」

羽奈は悪戯っぽく言う。

「人生、いくらでもやり直せるんだから。今日は私のおごり。めちゃくちゃ楽しいやつ、体験させてあげる」

「楽しいやつ?」

羽奈が意味深に目を細める。

「ホスト、呼ぶ」

佑奈は笑った。冗談だと思った。

けれど羽奈に連れて行かれたバーでボックス席に通されると、そこには最初から用意されていた三人のホストがいた。

それぞれ雰囲気が違う。背も高く、顔も整っている。

「佑奈、選びな」

羽奈は腕を組む。

「今日は私、取り合いしない。ぜーんぶあんたの担当。たっぷり甘やかしてもらいな」

佑奈は三人を見た。

――悪くない。でも、どこか物足りない。

十年も有川紘樹を好きでいた理由の一つは、能力も容姿も身長も、あの男が頂点クラスだったからだ。

そんな男と日常を共にしてしまったせいで、他の誰かを見ても、目が厳しくなる。

佑奈がまだ決めきれないでいると、背後から、薄い嘲りを含んだ声が落ちた。

「おや。有川の奥様じゃないか」

佑奈の目がわずかに止まる。振り向くと、吉原グループの御曹司が立っていた。

吉原生真。

有川紘樹の幼馴染で、後ろには見覚えのある連中が数人――紘樹の取り巻きだ。

生真は面白がるように佑奈を値踏みする。

「やっぱり奥様だ。紘樹は知ってんの? 奥さんがここにいるって」

羽奈の顔が一気に冷える。

「あなたに関係ある?」

生真は羽奈には目もくれず、佑奈だけを見据えた。

この六年、佑奈が紘樹にへりくだって尽くす姿を、生真は何度も見ている。

この女は紘樹の付属品。

紘樹がぞんざいに扱うなら、自分もそう扱っていい。そう思っている男の目だった。

生真がくすっと笑う。

「俺には関係ないよ。でも、俺の兄貴が知ったらさ」

「説明しに行くの、奥様でしょ?」

含みのある視線が、佑奈の背後へ滑った。

佑奈がその先を追って振り向いた瞬間――店の入口から、有川紘樹が佐伯薫を連れ、並んで入ってくるのが見えた。

視線がぶつかる。

紘樹の瞳が、すっと暗く沈む。

佐伯薫の目には一瞬、得意げな色が走った。すぐに驚いたふりをして口を開く。

「佑奈さん、ここにいたんですね」

薫はホストたちの方を見て、言いたげに唇を噛む。

空気が、妙に張りつめた。

紘樹が佑奈を睨む。

「ここで何してる」

「あなたに関係ある?」

佑奈は小さく返し、そのまま席に腰を下ろした。

薫が慌てて取り繕う。

「紘樹は心配してるんです。どうしてずっと家に帰らないんですか? それなのにバーで遊んで……」

佑奈は目を上げた。冷えた瞳に、薄い嘲笑が浮かぶ。

「じゃあ、あなたは?」

「気絶したんじゃなかったの。お酒飲めるんだ。……まさか、演技?」

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